ポメラdeコラム

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2008年 11月 25日

ポメラはメモ帳ではなく万年筆だと思う。

2008/11/25 11:15

ポメラはポータブルメモライターの略である。テプラがテープライターの略であるようにシンプルなネーミングがキングジムらしい。ポメラを使って1週間を超えたが、今の感想としてはメモ帳というより万年筆だと思う。その理由について記そう。

メモ帳は紙を使っている。マルマンのスケッチブックだ。テキストで表現できることは頭の中のほんの一部に過ぎない。メモというのはなにかを作ったり編集したりする前の中間生成物のことだが、こと私にとってはメモはテキストではない。メモはグラフィックだ。だからパームの手書きメモからクロスパッドからエアペンからタブレットPCまでデジタル化への試行錯誤は続いた。しかし結論として紙を超える手書きツールはいまだ存在しない。グラフィックのメモにとって重要なのは検索性ではなく再会性だからだ。手書きメモをPFUでスキャンしデジタル化して元の紙を捨てたとする。そのとたん、そのメモとは自分の意志が介在しない限り二度と再会できない。それでは意味がない。

キーボードを使ってテキストにすること。それは私にとって表現であり確認である。自分の頭の中のことを文字にすることで自分の脳内を客観視するのである。その文字をネットというソーシャルスペースにアウトプットすることでそれは完結する。自分が考えたことを自分が読めるノートにだけ書き込み棺桶まで持っていくという発想は私にはない。もし私が考えたことが人に影響を与えたりなにか良いアクションにつながるようなことがあればそれこそが私の幸せだからだ。キーボードを使ってテキストを打つことは私にとってはイコールアウトプットなのである。

ポメラが発売されて各種のブログやレビューを読んでいるとキングジムが当初想定していた層とは違う層が反応しているように感じられる。会議の議事録やメモとして使うというカタログ的な利便性より、書くこと自体を楽しむ喜びのようなものを喚起しているように見えるのだ。日本人は話し言葉より書き言葉を好むDNAを持っており、それは平安の時代から続いている。「源氏物語」は日記の元祖だし「徒然草」はコラムの元祖だ。芭蕉はケータイ小説の元祖にも見える。四季や日々の移ろいの中感じたことをしたためるというのは日本人の情感のDNAに刻まれている。ポメラはこのDNAに火をつけているのではないだろうか?

ものを書くには儀式が欠かせない。文具で言えば好きなペンを選ぶこと。そのペンをノックすること。お気に入りのノートを開くこと。そのステップが意外と大切なのだ。万年筆を使っている人ならその感覚は実感しているだろう。キャップをあけ、ペンを走らせその感触を楽しみながら自分の頭の中の思いを文字に変換していく。ポメラにはこの儀式がある。液晶を開き、キーボードをスライドさせ電源を入れる。真っ白(もしくは真っ黒)な画面にカーソルキーだけが点滅している。とても美しい。メールで送られてきた見積もりのエクセルや仕事のポワポ、たまたまダウンロードしたjpgなどのファイルが散在するパソコンのデスクトップの猥雑さとはまったく違う静寂の世界である。

キーボードから文字を打ち始めると指の先から文字が画面に流れ込んでいくような感覚。ウィルスソフトが作動してカリカリとハードディスクが不快な音をたてることもないし、ソフトのアップデートをして下さいとか、メールが着信しましたとか、そんな余計なアラートは一切出現しない。バッテリーは1週間以上持つのであと何時間で電源が切れるからなんてことも考えなくていい。液晶を閉じれば自動で保存されるから保存すらも心配しなくていい。

ただ文字を打つことだけができるデジタル筆記具。

ポメラは高いと言われるが、万年筆だと思えば決して高くはない。これはメモ帳というより筆記具なのだ。万年筆は書き味が命だ。万年筆に時計やメール機能は必要ない。ポメラもただ良いキーボードとフォントだけがあればいい。その二点においてポメラは初代とは思えない完成度だ。書き始めるとどんどん筆が進む折り畳み式のキーボードと見やすく美しいフォントとモノクロ液晶。これをミニノートやケータイと比べることは万年筆と6色ボールペンを比べるのと同じくらいナンセンスだ。

あなたが優れたキーボード筆記具が欲しければポメラを買うといい。この万年筆はあなたの頭の中の言葉を引き出してくれる最高のパートナーとなるだろう。

2008/11/25 11:47 1834文字

(川井拓也)
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by pomerade | 2008-11-25 11:47 | ポメラ


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